東京品川の廣瀬友之さんのレポート 平成23年4月17日
※自宅避難地域への支援に道を拓いてくれたのは、南三陸町の被災者で避難所住人であKさんや元漁師のOさんらです。「被災者が被災者を助ける」構図なのです。このう
ち、歌津の田の頭地区は、東京の廣瀬さんがKさんやOさんと一緒に訪問して支援を約束してきたものです。
以下は廣瀬さんのレポートですが、この間の経緯がよくわかります。
南三陸町レポート 4月17日~
仮眠を取りながら真夜中の東北自動車道を駆け抜けて、仙台南インターから日が昇る太平洋沿いの仙台東部道路に抜けると、右手に津波の爪跡が見えてくる。目的地の南三陸町までは、あと100km。進行方向右側の視界が開ける度に、3月11日、東北平洋沖地震の直後に発生した大津波によって太平洋側の街を余すところなく飲み込んだその被害が垣間見える。そして、カーナビの目的地までの距離を示す数字が減っていく度に、私の緊張感は反比例で増していった。
私と共に北へ向かう車も、すれ違う車も、自衛隊・警察、そして救援物資を積んだ車ばかりである。又、国道45号の一部が津波によって浚われている為、迂回路として利用する一般車両も増え、通勤ラッシュのように渋滞していた。ついに現場に足を踏み入れたことを実感し、深呼吸で自らの身体を宥めながら車を進めると、周囲の車両たちは石巻や東松島などのICで各々の目的地を目指すために散っていった。そして、南三陸町に至近のICを降りる頃には車両の数はまばらになっていた。
南三陸町・志津川の海まで15kmの道の駅で最後の休憩。訪問先に志津川中学校に出向くには少し早い為、待機していると、春の日差しの中、野良猫が誰からも構ってもらえないにも関わらずゴロゴロ喉を鳴らしながら、太陽に腹を向けて不貞寝していた。平和な風景で、私も一瞬気持ちが安らいだが、今回の道程の中では唯一の時間だったかもしれない。
私が被災地に向かった理由は、実はこんな新聞記事を目にしたからだ。4月4日の産経新聞の記事、「尽きた食料…信頼の分配、助け合う自宅避難民(宮城・南三陸町)」がそれである。避難所に物資が行き渡り始める一方で、大津波の直撃を免れた自宅で暮らす「自宅避難民」への支援が課題となっているという記事だった。であるなら、そのような境遇にある人に支援物資を持っていこう。特に誰に相談するでもなく、少しずつ支援物資を買出し、レンタカーの手配を行い出発の日を決めたのだ。
長野で行われた北京五輪の聖火リレーの際に知り合った、ジャーナリストの山際澄夫さんから連絡があったのは、出発の準備を人知れず殆ど済んだ後のこと。山際さんは、南相馬町と南三陸町を既に訪れ、被害の惨状を取材し、避難所での生活を余儀なくされている多くの被災者の方を目の当たりにしていた。
山際さんの話を伺うと、心は決まった。私が兼ねてから気になっていた「一番困って
いる人がいるかもしれない場所」がそこであるだろうことが容易に予想もできた。では、そこに向かってみよう。私は、山際さんから今回の救援物資の受け手である世話役のKさんが避難生活を送っている南三陸町の志津川中学校を訪れることにしたのである。
南三陸町は宮城県の北東部、鱶鰭の生産が日本一の気仙沼市の南にある人口17000人余りの町だ。他の三陸の町同様漁業が盛んで、志津川と歌津という地区に人口が集中している。太平洋に面した志津川湾と伊里前湾という二つの湾は、牡蠣や帆立、ウニ、ワカメの養殖が盛んで、三陸の典型的な港町だ。昔は養蚕も盛んだったという。又、夏には小規模ではあるが海水浴場や磯釣り場に、仙台などから人々が訪れ、国道45号沿いが賑わう。そんな町である。
登米市と南三陸町を分ける境界を過ぎ海が近くなるのを確認すると、周囲の空気が一変する。津波が侵蝕したであろう境界を超えたのである。途端に猫が不貞寝出来るような、小春日和の暖かな風景は一変し、津波によって流されてきた拉げた車や漁船、瓦礫の山が視界に飛び込んできた。まだ地図で確認する限り、海までは3キロはある。そこから暫くして戸倉地区、そして志津川へ入っていっただが、残念ながら私がみた風景は、前述した街の光景ではなく、瓦礫と外壁などを身包み剥がされた鉄骨の建物だけが残る風景であった。
志津川中学校では、世話役のKさん御兄弟、そしてOさんが迎えてくれた。避難生活はもうすぐで40日を迎えるという。到着して、炊事場で炊事を行っていた女性の方々にも挨拶をし、荷物を下ろすと、すぐに私は炊き出しの昼食に誘われた。私は、昼食や夕食は道中で仕入れてきたと話し最初は遠慮したのだが、「物資の配達は午後だし、遠慮なんかすることないから」のKさんの一言を甘んじて受けてしまった。私が避難所について、まず行ったことはなんと「食べること」だったのである。
その日の昼食は、海老名にあるモスクに集うムスリムの方々の炊き出しによるチキンカレーだった。そこの中学校の生徒も、もちろん避難所の方も、美味しそうにカレーを口に運んでいた。私は炊き出しを行っている方とも話をしてみた。彼らはパキスタンとインドネシア、マレーシアの方であったが、三陸の各地でチキンカレーの炊き出しを行っているという。彼らは今回の支援の理由を、インドネシアを中心に甚大な被害が出たインド洋大津波の際、多くのイスラム教国に日本が支援を行ってくれたこと、そして気仙沼を中心とした繊維会社に、様々な技術を学ぶ為に来日しているムスリムが相当数おりいつもお世話になっているので、今回は助けたいという気持ちでやっていることを説明してくれた。
食事を終えると、私が自分で調達した物資、さらに地元の友人・後輩から託された物資、そして山際さんがHPで募集を掛け全国各地から送られた物資も数箱、キャラバンにつみ込む作業を始める。私が訪問した時点では、山際さんが募った物資は、中学校武道場の8畳ほどの空き部屋に一度集められるシステムになっていた。そこで一度荷物を集積し、大規模な避難所ではなく、比較的小規模な避難所を対象に物資を配っているのである。南三陸町では、現在でも45か所の避難所(4月16日時点)に、数千名単位の被災者の方が苦しい避難生活を続けているが、その比較的物資の行き渡っていないだろう場所に、山際さんの支援物資が3人の世話人の方の手によってに運ばれているのである。 山際さんの意に賛同し届けられてくる支援物資は非常に好評であると、世話役のKさん(弟)は話してくれた。女性用の下着、化粧水、乳液、ハンドクリーム、そして雑誌類など、通常配送されてくるような支援物資にはなかなか含まれないものが多いからだという。ただ、膨大に量があるわけではないから、適量をなるべく小規模な避難所配る。
そういう場所であれば、殆どが長年のご近所さんなので物資の取り合いなどが起こらず平和裏に分配されるので安心というわけだ。口は決して良くないが情に厚く、決して自分だけが良ければ良いという考えは町にはないと世話人さんは話してくれた。私もそれを信じ、少しでもこの町の誰かの為になればそれでいいのだ。
世話役さん3人と、どのような場所に荷物を運ぼうかという話になり、私の希望を話をした。前項に書いた「自宅避難者の元へ」という件である。世話人さんの一人のOさんが、「被害も確認できていないので行ってみたい」という場所を口にした。それは中学校から15Km程離れた隣町である歌津から突き出た岬の付近の集落だった。Oさんは、震災以降安否の確認はしたものの、その後は連絡を取っておらず連絡を取ることにしたのである。携帯電話が繋がり、Oさんが電話を始めると、先方からは「物資を受け入れたい」という回答だった。 受け入れ先のAさんが住む地区の状況は、以下の通りだ。 「100世帯150人程度の集落なのですが、6割程の家が流され残った家に自宅避難という形になっています。電気・ガス・水道は復旧の見込みはありません。家は無事でも車が流されている人が多く思うように動けません。又、自宅避難者には基本的に救援物資はもらえません。食べ物は多少配給されるようになりましたが、生活物資全般が不足しています。今は、本当にきつい状況です。職業は皆漁師ですが、瓦礫が多すぎて漁の再開が出来ません。早く再開して直ぐにでも出たいですが、現状は非常に厳しいと思います。」
すぐにこの場所に今回の物資を運び入れることが決まった。少しでも困っている人のところにという思いで現地に入ったが、震災から一カ月を経過してもなお、そのような境遇にある人が存在するのだ。そのような境遇にある被災者の方は他にも必ずいるはずだが、一先ずすぐに向かう事を約束して電話を切ると、その集落へと向かった。キャラバンは、国道45号を気仙沼方面に向かう。国道と言っても、アスファルトが津波に浚われ自衛隊などが救助・物資輸送などの為に緊急的に補修した、所々砂利道のオフロードのような道である。しかし、このルートは被災者の命をつなぐ道であることには違いない。前回までとは言わないまでも、今地盤が沈下してしまった状況で津波が襲ってきたら、間違いなく再び寸断されるだろう。 さらに気仙沼方面に進むと、世話役さんも今まで確認していなかったという被害の光景が目に飛び込んでくる。そして、一人の方がこう呟いた。「Hさん、復興は無理かもしれない…」。その言葉に私は言葉を返すことが出来ないでいた。テレビで流れるCMでは、有名スポーツ選手やアイドル、芸能人が「勇気」「希望」「絆」「一人じゃない」「頑張ろう」というものの、被災地においてはそんな言葉が完全に宙を浮き、泡のように弾けていく。それくらい、絶望的な風景。これが延々と続くのである。
志津川の街の出口から清水浜という小さな集落を過ぎ歌津まで国道45号を使うと約8キロある。しかし、そのうち津波に侵蝕されずに済んだ箇所は、標高が30m以上ある箇所、2km程の箇所だったようだ。その途中では、遥か頭上の太い木の枝に布団が引っかかり風に揺れていた。布団を運んだのは誰でもなく他でもない津波なのだが、助手席に座り飛び込んでくる光景があまりにも非日常過ぎて、途方に暮れるという以外のことが出来なかった。 「既に昔の風景を忘れそうになっているよ」。車の中で、もう一人の方がこうも呟いた。津波は人の命や財産だけでなく、昔の記憶や思い出も消し去っていくのだ。色々な思いが心を渦巻き、最初の「復興は無理だ…」と呟いた世話人さんの言葉にまともな反応も出来ず、言葉も返せぬまま、岬の先端を目指すキャラバンは国道45号を逸れ、現時点で岬に通じる唯一の狭い道に入って行った。それにしても、ここまで言葉に出来ないという感覚に襲われたのは、本当に初めてかもしれない。
さらにその先、岬に奥の集落に入る最短距離のルートは津波に襲われた挙句、地盤沈下を起こしており、手の施しようがない程に破壊されていた。迂回ルートを目指し、途中途中は非常にアップダウンの激しい道が続く。仮に家が無事でも、車が流されたら移動は本当に困難である。そして、その道すがら、右手に伊里前湾と志津川湾、左手に僅かに太平洋を望めるポイントを通り過ぎた。抜けるような青空に、穏やかな波の真っ青な海、海と空がその青さを競っているかのように思えた。その海が、あの日、たった一日だけ狂気と化したのだ。私なら、どんなに恨んでも足りないくらい海を恨んだかもしれない。 ここまで書いてしまったので、既に述べておこうと思うが、私がこの一日半で出会った人の中で、「海」について恨めしいという感情を表した人は一人も居なかった。復興は無理だと呟いた世話役さんも、「落ち着いたらサーフィンも始めるし、釣りもしたいね」と後に話してくれた。南三陸に生きる人々にとっては、何があっても海と共に生き、そして死ぬ。もし、「海」を恨んでしまったら、自らの存在を否定する事と同意であり、死ぬことと同意なのかもしれない。
今回、物資を運んだのは振り返ると海が一望できる素晴らしいロケーションの民家だった。前述のとおり、その周辺に暮らす方は150人前後、約6割の人が家を津波によって失い、そして自宅待機や小さな集会所に寝泊りするという形で、避難生活を続けている人々だった。もちろん、私の訪問した時点では電気は復旧していなかった。水道に至っては復旧の見込みは絶望的であるという。 到着すると、これぞ海の男というような男性陣が何人も待ち構えており、歓迎してくれた。地元の友人が用意してくれたお菓子類もトイレットペーパーも、すべて歓迎してくれた。これから、又、周りの人も呼んでしっかりとシェアをしていただけるという。
そして、ひとまずキャラバンに積み込んだ物資を積み下ろすと、一人の漁師の方が私にこう言った。 「どうにかして、発電機が手に入らないものだろうか…。それがあれば、瓦礫を掻き分けてでも、漁に出ようと思うんだが…」
発電機は、地震の翌日から東日本を中心に手に入らない状態が続いている。地震直後、原発の事故が明らかになって電力不足の危険が広まってから、ネットでもどのようなツールを通じても手に入らなくなってしまっている。その場で、私もどうにかしてという思いで、山際さんにその場で連絡を取ってみようと思ったが、現時点では如何様にも難しいという判断で電話をすることをやめた。 「漁師は、海を見ていなければ死んでしまう」 先日、東京・永田町でお会いした歌津出身の女性がそう言っていたが、それは大げさでも何でもなく、本当なのだろう。そして、その一方で、そこまで仕事に夢中になって
打ち込める、漁師さんの気持ちの強さと、私自身の至らなさを反省してみたりもするのであった。そして、その住宅の男性から、お名前と住所と電話番号を伺うと、今後、こちらにも救援物資の拠点とさせて頂く事を約束し、その場を離れた。以降、多くの方の善意が満載された救援物資は、一日数箱の単位で集落の方々の元に届くようになった。
今回、自宅避難者の方を対象に支援物資を持っていこうと東京を出発し、現地で困窮している被災者の方を目の当たりにして、今回の物資の送り先は間違いがなかったこと
は確信している。しかし、自宅避難者や小規模の避難所にしっかりと物資が行き渡っていない現状を、なぜマスメディアが報道出来ないのか。そして、行政もなぜその現状認識を持つことが出来ないのかという点では、大きな危機感も感じた。 岬の果てで困窮する被災者は、復興という以前の問題、いわば如何に食料を手に入れサバイバルをしていくのかという、最もレベルの低いフェーズから抜け出せないままでいるのである。確かに、南三陸町という町が、行政も津波によって多くの被害を被ったことは紛れもない事実である。一時は、役場に保管されていた住民票も行方不明になり、一体誰が被災し亡くなられ、そして誰がどの場所に避難をしているのかという情報が完全に寸断された状況があったことも事実である。言うまでもなく役場は、その全てが津波に浚われ原型を留めず、鉄骨で作られた防災庁舎では、再三再四テレビでも報道された町の防災管理課の女性をはじめ多くの方が犠牲となってしまった。佐藤仁町長もまた、防災庁舎のアンテナにしがみ付いて津波に耐え、そして寒中吹き荒ぶ中を一日耐え抜いて生還した被災者である。(そのような意味で考えれば、行政のリーダーである町長が犠牲になった岩手県・大槌町なども同様の危機を抱えているのではないだろうか)
しかし、その大きなビハインドを差し引いても、一ヶ月半に渡って自宅避難者の生存権すら危うい状況に晒されている現状は、やはり納得できないものを感じざるを得ない。日本が先進国として世界に誇れるほど成熟していないのか、それとも、今回の東日本大震災によって齎された被害が何を疑うでもなく「想定外」だったのか。この結論が出るには、しばらく時間がかかるのだろう。 偉そうな口を聞くなと叩かれる前に、再び救援物資を南三陸町に持っていこうと計画している。次回はゴールデンウィーク、生鮮食料品を中心に持ち込むつもりでいる。取りあえず、今はそれしか出来ない。そして、自分の無力さを痛切に感じるとともに、何よりも強力な「当事者意識」と「危機感」を持って、被災者の方と一緒に、痛みをシェア出来たらと考えている。
以上
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