2012年3月28日水曜日

私が物資の支援を提案する理由 平成23年4月7日
 

 「3・11」の大震災の現場を見るため、4月に入ってすぐ救援物資を車に積んで原発20キロ圏から30キロ圏の福島県南相馬市と宮城県南三陸町を訪問しました。
 それぞれに多くの問題を抱えていまして、南相馬市は津波で多数の死者を出したほかに原発事故で「自主避難」が発令されてこの先どうなるのかと困り果てていました。南相場の住民は全国300か所に分かれて避難、それでもなお2万人近くが自宅に残り、物資の流入もないなかで屋内退避しているのが実情です。放射能の影響で行方不明者の捜索が行われないといった問題も出ています。 これに対して、原発の問題こそないものの津波で町全体が根こそぎもっていかれたと言
っても大げさでないのが南三陸町です。南三陸町は、「津波が迫っています。逃げてください」と最後まで防災放送を続け自らは逃げ遅れた女性職員が話題になりましたが、その惨状は、テレビや新聞で見聞きし、感じていたのとまた違った衝撃的なものでした。
 人々は山が複雑に海に切れ込んだいわゆるリアス式海岸の狭い入り江に主に漁業を生業としてへばりつくように暮らしていましたが、それが、すべて無くなってしまったのです。  女性職員がいた防災センターや市役所があった志津川地区という町の中心部から、国道45号線を気仙沼に向かって行くと、海岸を縫うように4か所も5か所も港のある入江があるのですが、そこにあった人家など構築物は完全に消えてしまっていました。
 そのすさまじさは、海などどこにも見えないほど海岸線から入り込んだ場所でも、山肌に小さな船や車が突き刺さる光景に出くわすという有様でした。 いったいどれほどの津波が襲ってきたのか?
 清水浜という入江で、船3そうと車5台、家を失いながら九死に一生を得た、60代の漁師さんは「ワカメの出荷の準備をしていたときのことでした。びっくりするような揺れがあり、すぐに防災無線の津波警報で山の方の避難所に逃げたが、そこも襲われた、それからはみんなで必死で山登りをした。チリ地震でも大きな被害があったし、津波を侮っていたなんてことはない。女子職員の放送も切羽つまったものだった。防災無線も最近になって新しいのに変えたばかりだった。無線は地区全体に放送できるのと個々の家のなかにも設置されている。ところが防波堤も水門も何もかも役にたたなかった。
 無線は最初6メートルの大津波と言っていたが、実際は十数メートルあった。それがさらに十メートル以上も山をかけ上がった」と話していました。  この方が住んでいたのは海のそばでしたが、清水浜で犠牲になった三十数人はほとんど海から離れた家の人たちだったといいます。 想像もつかぬ場所にまで津波は押し寄せたのです。
 テレビや新聞では、人口17000人の町民のうち7割が被災したと言っていますが、そこをみた私 の実感としては「町の9割以上が消えてしまっている」としか思えません。死者は確認できたのは400人余りですが、行方不明者は3週間以上経っても「集計さえできていない」。小さな町なのに数千人が犠牲になったのです。生き残った被災者のうち8000人が高台の小中学校、集会所、民家など45か所に分散していますが、電気、ガス、上下水道も断たれたなかで衛生環境がいいはずはありません。果たしてこれが人間が一時的にでも滞在するようなところだろうかと思わざるを得ないほどにごった返した避難所もありました。臨時の町役場ではイスラエルからの医療チームをはじめ医療関係者の姿を多くみましたが、いくら医療関係者がいても人間がその尊厳を守るためにはそれなりの環境が必要なはずです。
 仮設住宅の建設も始まっていません。
 再び津波に襲われる危険のある平地を除けば仮設住宅の建設用地などあるはずなどないのです。すでに1000人近くが町内の避難所から、県内の別の地域に「集団避難」していますが、移転先でもほとんどは集団生活で個室が与えられているわけでもない。  なぜ集団避難した人々に個室が与えられないのか。なぜ仮設住宅を県外に大量につくらないのか。町というよりも国の無策に怒りがこみあげてきます。
 物資も自衛隊の大活躍などで、当初のおにぎり一個を分け合って食べたなとという状態から最低限の量の確保は出来ているようです。しかし、それは相変わらず最低限であって、酒やたばこなど嗜好品はもちろん、女性の下着や化粧水、また子どもの遊び道具等々、むしろないもののほうが圧倒的に多いのです。
 避難民は家も貴重品もすべてを津波にながされて着のみ着のままで逃げてきた人たちです。 物もなければお金もない。
 1000億円もの全国の募金も被災者にはまだ一円も支払われてはいません。 避難生活は今後も長く続きます。こうした過酷な運命にある避難民に少しでも人間らしい生活をしてもらいたい。そう考えて、団体や政府を通すのではなく私が現地訪問を通じて知りあった避難民に直接、物資を送ることを思いつきました。
 幸い宅配便のうち「クロネコヤマトの宅急便」 は南三陸町にも配達を再開しています。
これを読んでいただいた方も被災者に少しでも物資を送りませんか? もし、ご協力していただけるようでしたら何をどれぐらい送れるかについて私宛にメール
(s_yamagiwa2003@yahoo.co.jp)をください。
 避難民個人の住所(避難所)と氏名、携帯番号をお教えしますので、ヤマト運輸の宅急便でそこに直接配送してください。
 送付先には100人以上の避難民がいますが、避難民は別の避難所とのネットワークもありますので物資が多くなれば別の避難所に配ってもらいます。  ここにきて政府は声高に「復興」を叫び始めていますが、復興どころじゃない。現に体育館で雑魚寝をしている人々をどうするのか、ご遺体をどうやって収容するのか、復興などと浮かれたことを言う前にやるべきことはまだ山ほどあるはずです。
 避難所で夜を迎えて、4、5人の方とたき火を囲んで、大津波の恐怖や故郷への思いなどさまざまなことを語りあいました。そこには一切の騒音もあかりもなく、 空は満天の星でした。避難民の方は言いたいことはたくさんあるはずなのに誰も政府や行政に文句を言いません。運命を呪う言葉さえなかった。これが東北人なのでしょうか。 ダンボール一箱で結構です。どうぞよろしくお願いします。
(4月7日)         

 私が夜遅くまで語りあった避難民の世話役の方々です。写真下。

南三陸町の中心部だった志津川地区全景。真ん中を通る川の両サイドにあった建物がすべて消えています。 南三陸町から気仙沼まで同じ光景の連続でした。写真下。 

避難放送が行われた防災センター。赤色の3階建ての建物。海岸から200メートルほどしか離れていなかった。犠牲になった女性はこの2階にいた。屋上の手すりにすがりって助かった町職員もいる。電気を通すため電柱が急ピッチで立てられていた。 写真下。

避難所の入口に被災した子どものホームスティを受け入れるとの張り紙があった神奈川の人で「いっしょに学ぼう」と家族の3人の子どもの写真まで添えられいた。その心優しさにうたれました。写真下。


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